■とらドラ!SS 竜虎並び寝る
月の光に蒼く。
純白のシーツを頭からまとうだけで、大河は竜児の花嫁になる。
窓から射し込み大河の足元までを照らす、月影のウェディングロード。
美しくて。美しくて。
だから竜児はここが、大河との逃避行の末のかりそめの宿、祖父の家の二階だということをほとんど見失う。永遠を、望んでしまう。
「ちょっとだけ……」
練習ね、と、幻のケープの奥で大河が微笑んでみせる。
~竜虎並び寝る~
1
「もういちど」
竜児は大河にキスをする。
「もういちど……」
キスをする。それが答えだから。
「もういちど……」
ずきん、とする。大河と口づけをするたびに走る、この、甘いくせに、毒のような。
脳をとろけさせ、腹の芯の知らない臓器を満たし、ふたたび身体の端までかけめぐり、指の先まで甘くする、この、伝わるものは何だ、と竜児は思う。それは稲妻のように強く、だけど蜜のように沁みいる。身体が甘い、そんなことがあることを初めて知る。甘さで気が狂いそうになる、そんなことがあることを。教えてくれたのはこの女だ。俺の初めての女。
大河。
涙すら出てくる。
涙となって出てくる。だから竜児にはわかってしまう。
大河のふるえる睫毛のはた、降り落ちた月の光をふたたび凝らしたように光る美しい雫に、このいとしい女もまた、竜児と同じ甘美な毒に身体の端まで苛まれているのだと。
ふたりとも。だから。
「だっ、だめだ! これ以上はもう……っ!」
力も溶けて消えかけた両腕にありったけの強い意志をこめて、竜児は大河から身体をもぎはなす。
踏みとどまる。
歯をくいしばる。
自分はどんな顔をしているのだろうと竜児は思う。伏せた目に血を走らせ、涙すら浮かべて、俺はきっとひどい顔だ。こわい顔だ。
だが知ったことか、とも竜児は思うのだ。俺の顔を見て、誰がこわがろうが知ったことか、と。
ただ一人、たったひとりでいい。目の前にいるこの女に、大河にだけ伝われば。
大河にだけわかってもらえれば――それでいい。
竜児は願う。
わかってくれ、大河。おまえから唇を、身体を、引き剥がしたのは拒絶じゃない。その逆だ。その逆に、おまえを……だからこそ……大河、わかってくれるな? 大河――そう、竜児が、畏れと、願いとともに顔を上げると、大河は、
「竜児、これあげるわ」
その小さな手のひらに、小さな箱をのせて差し出していた。きゃ☆、とか言って、もう片方の手は熱くした頬に添えて、大河はこっちを見てさえいなかった。てか目つぶってる。
「おう……な、なんだこれ?」
「プレゼント」
「おう! そ、そうか。まいったな、俺の方はなんにも……て、おまっ!?」
窓から射し込んでくる清らかな月の光の下に手をひきよせて、竜児が確かめたそれは、
「な、なんでこんなモンを!?」
どう見てもコンドームです、ありがとうございました。プレゼントだけにありがとう……じゃねえ、って!
「さっき買ってきたの。ほら、下着とか買いにいった時に、一緒に。コンビニで」
「ぜ、ぜんぜん気づかなかったぞ。そうか、おまえがアホみたいに買った菓子の山にまぎれて……じゃねえ! おまえっ、これっ、だから……」
そして竜児は絶句する。だから、って。だからなんだと言うんだ俺は?
その、だからをひきついだのは大河だった。
「ん。だから、練習しよ?」
「練習?」
「そう、練習の続き」
「続き?」
「そ、そう。続き、だから……そ、その、だから、ね?」
わかるでしょ?、なんて言いながら。両手を頬にあてて大河はなにやらクネクネする。
竜児だって、もちろんそんなの、わかるに決まっている。この状況で、これを、大河が、これなのだ。いくら竜児だって、大河の言いたいことはわかっている。わかってはいるが、それをなんと言えばいいのかはまた別だった。
わかっているとも大河、それはえがつくものだ……えがつくものだよな? あとせとか? とか言うのかバカか俺は? だいいち、えだろうとせだろうと、そんな言葉、他人に――まして、好きな女になんか、竜児は言ったためしがない。
しかしこの沈黙をどうとったものか、大河はその、今はまだ世界遺産に指定したいほどにも珍しい、竜児のためだけに向けたはにかみの表情のまま――その愛らしさのままに、瞬間、眉根に苛立ちの小さな雷光を走らせて、
「このグズ鈍感スケベ椅子!」
ひと息に犬から椅子へ。竜児をとうとうモノにして下さった。
告白したからといって、婚約したからといって。犬からヒトへと、いきなり昇格できるとは竜児も思ってはいなかった。けれど、ここでまさかの無生物への降格、しかもエロいモノに堕ちてしまうとは……。
そんな竜児を呆然とさせたのは、しかし、ソープの備品にまで身をやつしたショックなどではなく。
癇癪をすっとひっこめて、ふたたび上目遣いに恥じらって甘えた声を出す、凶暴な婚約者の豹変ぶり。
「……だから! え、えええ、えっちの練習、しよ?」
「お、おう。だけどそれ……これ使っちゃあ、それはもう練習とは言わねえんじゃねえか……?」
「うるさいわね……いちいち細かいのよあんたは。どうせしたいくせにこのエロ犬」
めでたく竜児は犬に返り咲いた。
2
「あっち向いてて」
「おう」
「離れなくていいから……離れないで」
「お、おう……」
背中に大河の頭があたる。背中に大河の体温を感じる。背中ごしに、大河がパジャマのボタンをはずしていくのを感じる。なぜか湧き出した唾を口の中にためてしまい、竜児は困って、気づかれないようにそろそろと飲み下す。
大河が小さな尻を突き出して、竜児の太ももにえいっと当ててくる。ふふ、とやつは笑ったかもしれない。唾を飲んだことがバレたのかも。
そうして大河は脱いだパジャマを、ぽいっと布団のわきに放る。竜児はそれを目で追わずにいられない。後できちんとたたむためだ。そう、たたむためだとも。もちろん。
「いいよ、こっちむいて。竜児」
「おう……」
返事をしたはいいが、すぐ振り向いていいのだろうか? 振り向くタイミングとかあるのか? 竜児にはわからない。わからないことだらけで、確かなことは、このままではとても心臓がもちそうにないことだけだった。どくんどくんどころじゃない。どどどど、って、おまえ。何か出るのか、出ちまうのか? どどどどどどど。
鼓動の早さになにやら生命の危機さえおぼえた竜児が、ようやく振り向くのと入れ違い。
「寒い寒い……」
大河はふとんにくるまって、ちょこんと可愛く頭だけをのぞかせていた。
うわーっ!と、声には出さず心の中で竜児は叫んだ。心の中の頭を両手でかかえた。俺はなんというもったいないことを! 一糸まとわぬ大河の可愛い身体はどこだ!? ふとんの中ですMOTTAINAI!! ていうかもうこれ、大河の意地悪なんじゃないだろうか?
「なによ、そんな顔して。……MOTTAINAI、とか、思ってる?」
意地悪な上にエスパーになった大河は、あごをしゃくってふふん、と。なんだろう、すごく見下されている感じがする。寝ているのは大河なのに、立っているのは竜児なのに。下からなのにまっすぐと。
「見たいの?」
そんな大河は言うこともまっすぐ。
「お、おう……」
「なーんか、気の抜けた返事ねぇ。見たいの? どうなの?」
おっかねえ。竜児はこわくてたまらない。何がこわいって、大河が不機嫌になることもこわいが、その当然の結果として訪れるだろう中断が、今の竜児にはたまらなくこわい。中断とか、マジで勘弁だ。てかそんなの無理だ。だから、
「見たい」
と、竜児はつい、うわごとのような声をもらしてしまう。それに気づいて、そしてそれが勇気になる。そうだ、俺は見たい。今こそ言おう、大河の裸がすごく見たい! そうさ、言えるとも。何度でも言ってやるとも! 聞け大河。いや世界中のすべての耳のあるものよ聞け! 俺は大河の裸が見た
「いいよ」
い、いよ、って。
何度でも欲望を口にする勇気と決意をかためた竜児の前で。
見たい、と竜児がもらした、たった一つのかすかな返事にこたえて、大河は頬に紅を散らして。そしてふとんが、
「おう!?」
ふとんが、ふっとんだ。
ほんとうに、ふっとんだのだった。竜児の顔の前をかすめるほどに舞い上がったふとんはスローモーション、くたりふわりとしわを寄せてノックアウト、もういちど大河の下半身を隠すようにかぶさる。なんだこれは、大河がふとんに食らわしたのは掌底なのか蹴りなのか……そうじゃない。なんだ下はまだパジャマなのか……そうじゃない。大事なのはふとんじゃないし、パジャマの下でもない。大事なのは――
幻のようだ、と竜児は思う。
広がる淡色の髪が作り出した小さな海に、ミルク色の肌を月光に蒼く染めて、けれど頬と耳ばかりは月明かりのなかでもわかるほどに朱に染めて、大河が浮かんでいた。
浮かんで、そして大河は竜児から目をそらす。
薄い胸は交差したふるえる小さな両手でいまだ隠され、腰からしたたる雫のような曲線を描く腹は、さらに小さな雫のようなヘソだけをのぞかせてパジャマの下へと消えていく、けれど。
けれど、なんて、綺麗な。
「なに……なによ? なにか言うことないわけ? なによ、ぼーっと突っ立って……」
大河は星の散る瞳をついと眇めて竜児に向け、けれどまたすぐにそらしてしまう。
「なにか言うこと……」
竜児はほんとうに馬鹿になったみたいに、大河の言った言葉を繰り返す。
「そ、そうよ」
「俺、ぼーっと突っ立って……大河、おまえに」
おまえに見惚れていたよ……と、そう竜児は言ったのだった。そして竜児は、見惚れるという言葉の意味をはじめて本当に知る。気づいて、綺麗だよ、と言えばよかったかと悔やむ。可愛いよ、と言ってあげられればよかったのかと。なんて俺は気が利かない、口が下手でだめなやつなんだ。だから、
「うぐ~っ!」
「おう! た、大河!」
見ろ、大河が泣き出しちまったじゃないか。寝巻きのポケットにも用意してあるポケットティッシュを取り出して、大河の涙を拭こうと竜児はあわてて傍にひざまづく。
「い、痛てて……っ」
「おう! なんだ、そっちか。って痛いのか? どこがだ? 大丈夫か?」
「竜児、髪、踏んでる」
「おうわあ! すまんっっ!」
竜児のひざが大河の髪を踏んで、にわかにひっぱられて痛かったらしい。竜児はひざをどかし、大河の髪をかきわけて二度と事故が起こらないようにして。
そしてようやく、うぐうぐ泣いている大河の瞳からこぼれる涙にティッシュをあててやる。右目も左目もあててやり、ついでに鼻もチーンさせる。よかった、それで大河はおちついたみたいだった。
竜児は努めてやさしい声を出す。
「ごめんな、大河。俺、おまえを泣かせるほど口下手で……」
「竜児……」
「おまえがあんまり綺麗で、可愛くて、驚いちまって、ぼーっとして……だから、そう言えばよかったのに、見惚れてたなんて。だめだな、気の利いたこと、どうにも言えねえ。おまえがいうとおり、俺はバカ犬なのかも……言うべきときに、言うべきことが言えたためしがねえ。今だって、そうだ。泣かしたからあやまってるのに、あやまんなきゃいけねえのに、バカな俺は、おまえの濡れた瞳はなんて素敵なんだ……とか思ってる。あれ? おう? どうした、なんでまた涙がフゴモ……っ!」
大河は腕を振り上げて瞬殺。竜児の鼻の穴になにかがずぼおと突き刺さる。
「ああああんたまた私を泣かす気かっ! この変態天然ジゴロ犬っ!」
「お、おまえまたなんてことを……おおおおう……っ?!」
非難もそこそこに、ともかく竜児は鼻の穴に突っ込まれたものをつまんでびろーんとひっぱり出す。そいつの思わぬ長さに痛み混じりの感嘆の声が出てしまう。それはティッシュまるまる一枚、正確にいえば一組(二枚)だった。しかもそれが鼻の片穴から。竜児は驚いて、痛みに涙もぴゅっと。
「まあきたない」
「まあじゃねえ! しかもおまえこれ、さっきおまえが鼻かんだやつじゃないか!?」
「涙も吸ってるんだからいいじゃない」
「まったく何がいいのかわからんぞ俺は」
「嬉しくて泣いたんだもん」
「だから何が嬉しくて……お、う?」
「竜児、私に見惚れてた、って言ってくれたから」
だから嬉しくて泣いちゃったんだもん……と、大河は照れたように微笑む。こぼれ忘れた涙の名残が細めた瞳にいっそうのきらめきを集めて散らす。
(この章おわり、3章につづく)
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